展示室解説より

ごあいさつ

 このたび弘前大学図書館医学部分館では特別展として「オスラ−展」を開催することになりました。
 21世紀に入り、すべての分野で変革の大きな波が押し寄せておりますが、医学、医療の分野も例外ではありません。なかでも医学教育は大改革が求められております。このような時期において、いたずらに新規を求めることや、いたずらに過去を否定することだけでは改革が出来ません。それよりも原点に立ち返って、確固としたパ−スペクティブ (perspective) を持つことが大切であると考えられます。
 今から100年前にアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で近代医学教育の基礎を作ったウィリアム・オスラ−の人となりと業績を、彼の著書や論文別刷などによって間近に知ることは大きな意義があると思われます。改めて、医学とは何か、医療とは何か、教育とは何かを考える絶好の機会として下されば幸いです。
 この特別展を開催するにあたり、貴重な資料を貸与して下された日本オスラ−協会の日野原重明会長と資料の探索と御教示を下さったアメリカオスラ−協会の DJ キャナル博士に深甚なる謝意を表する次第であります。

  2001年6月1日

               弘前大学医学部長     遠藤正彦

               弘前大学医学部図書運営委員会                       後援:  日本オスラ−協会 (会長 日野原重明)
                     
アメリカオスラ−協会

サー・ウィリアム・オスラー(1849-1919)の生涯

 オスラ−は1849年にカナダの一寒村ボンドヘッドに牧師の第8子として生まれました。両親は英国人です。1866年17歳の時、トロントの近くのウェストンの学校に入学しました。ここでジョンソン牧師からトマス・ブラウンの「医師の信仰」の存在を教えられました。翌年購入した1862年版の「医師の信仰」(展示)をオスラ−は生涯を通して座右におきました。
 オスラ−は週末しばしば牧師の家をたずねました。そこにはトロント医学校のボベル教授が友人として来ていました。教授の影響で、牧師を志していたオスラ−は医学の道に転向することを決心しました。
 1868年の秋トロント医学校に進学したオスラ−は勉学に精励し、翌年から1年間ボベル教授の自宅に寄寓しました。教授からは医学のみならず、生物学、さらに哲学などを学びました。1870年の夏、ボベル教授の勧めによって、オスラ−はモントリオ−ルのマギル大学医学部に移りました。

 マギル大学のハワ−ド教授はオスラ−の才能を認め、しばしば自宅の夕食に招きました。ここでハワ−ド教授から、倦むことなく努力して、一つのことをなし遂げていくことを教えられました。1872年、オスラ−はマギル大学を卒業しました。
 カナダの医学校を卒業した医師は英国に渡って、さらに研修を続けるのが普通でした。オスラ−は1872年7月から1年3ヶ月ロンドンのユニバ−シティ−・カレッジで組織学、生理学を学びました。この時オスラ−は血小板の発見をしています。ベルリン、ウィ−ンを経由して1874年6月に帰国しました。
 オスラ−はマギル大学の恩師ハワ−ド教授から講師として招かれ、医学原論の講義を始めました。また関連病院のモントリオ−ル総合病院の病理解剖を一手に引き受けました。オスラ−が大成した蔭にはこの病理解剖を行ったことがあげられます。

 1885年、カナダでは有名になっていたオスラ−は、ペンシルバニア大学の内科主任教授に選ばれました。マギル大学は何とかオスラ−を引き止めようとしましたが、無駄でした。ペンシルバニア大学でオスラ−は休むことなく診療し、教育し、結核、腸チフス、マラリアの研究を行いました。
 1889年、ジョンズ・ホプキンズ大学の医学顧問ビリング博士は、オスラ−を新しい医学部の内科教授にスカウトしました。新しい構想の医学部にオスラ−は強い関心を持ちました。医学部の発足は遅れましたが、この期間を利用して、“Theory and Practice of Internal Medicine, 1892”(展示)を執筆しました。この大学でオスラ−は医師となるためには、カレッジ卒業生が、4年間の医学教育を受けることを提唱しました。そして臨床教育を病棟で行いました。近代医学教育がここに始まったといっても過言ではありません。
 オスラ−はジョンズ・ホプキンズ大学では医学、医療のみならず、看護婦教育、医学図書館司書の教育などあらゆる方面に絶大な努力を惜しみませんでした。
 1905年、オスラ−はオックスフォ−ド大学の欽定教授に招聘されました。オックスフォ−ド大学では診療のほかに多くの講演活動や社会啓蒙に多くの時間を費やしています。英国の大学の機能改革、病院の機能改革、教育の改革など実に様々なテ−マで講演し、多数の論文を発表しております。
 1914年7月に始まった第一次世界大戦でオスラ−はイギリス軍病院の監督や衛生上の指導をしましたが、オックスフォ−ド大学に入学していた一人息子のリビアは1917年8月29日、ベルギ−戦線で戦死しました。
 オスラ−はリビアの死という悲しみに耐えて、それまで通り活発に講演を行いましたが、死期を悟るかのように自分が収集した医学と科学の本の目録を作り始めました。

 このため多くの時間をオックスフォ−ド大学のボ−ドレイ図書館で過ごしました。このようにして出来たのが“Bibliotheca Osleriana”(展示)です。1918年に第一次大戦が終わると、オスラ−は難民救済などに尽力しました。
 1919年12月、オスラ−は胸膜炎から発した肺膿瘍のため、70歳の生涯を閉じました。オスラ−の遺言によって、その柩(ひつぎ)の上には1862年版のトマス・ブラウンの「医師の信仰」(展示)と白百合の花が置かれました。
 オスラ−は生涯に医学と科学の本約1330余篇の論文を執筆しましたが、病理学や内科学の論文のほかに、教育、医学史、文化史、さらに社会啓蒙に甚大な努力をしていることが、展示のリプリントによって窺うことが出来ます。