展示室解説より

ごあいさつ

 弘前市出身で、札幌市にお住まいの松野弘氏から、弘前藩医であった松野家に伝えられた四十数点の史料が、医学部分館に寄贈されました。
 弘前藩医に関する一次史料は極めて少なく、この意味で寄贈された史料は弘前藩の医学の歩みを解明する上で大変貴重であります。
 今回の寄贈を記念して、展示会を開催し、併せて松野家に感謝の意を表するものであります。

                        弘前大学医学部部長         遠 藤 正 彦                       弘前大学図書館医学部分館長  工 藤  一             

寄贈史料について

 弘前藩には国許の弘前と江戸に各々二十家ほど藩医がおりました。しかし時代の変化の波を受けて、現在その中の数家の御子孫の方が医家として弘前に居住しております。しかし残念なことには御子孫の方がおられても貴重な史料は殆ど遺されておりません。
 このような意味で、松野家から寄贈された史料は秘伝書、伝授書、遺言書、日記、他地方への遊学を証する史料、辞令などを含んでおり、重要であります。

弘前藩の藩医について

 俗に津軽藩と言われますが、正式には弘前藩です。津軽には弘前藩と黒石藩があったからです。
 弘前藩の医療については不明な点が多く、とくに一六五〇年以前のことは信用できる史料がないため詳細は分かりません。
 弘前藩は寛文元年(一六六一)から「藩庁日記」を記録し始めたので、この頃から藩医の活動は断片的に知られています。これによれば、国元の弘前と江戸にはそれぞれ二十人程の藩医がいて、藩主一族や藩士たちを治療しておりました。
 例えば「解体新書」の翻訳者の一人であった桐山正哲(きりやま しょうてつ)は江戸後期の弘前藩の江戸屋敷の医師であり、また森鴎外の史伝で有名な渋江抽斎(しぶえ ちゅうさい)も、幕末に江戸に住んでいた弘前藩の医師でありました。彼は幕府の医学館 躋躊館(せいじゅかん)の講師でした。
 藩医は代々世襲制で、親が隠居すれば、長男が跡を継ぎました。
 藩医にも階級があり、一番上位の近習医(者)は主に藩主やその奥方の治療をしました。分かりやすくいえば現在の教授クラスです。助教授に相当するのは近習医(者)格で、講師クラスは近習医者介(いしゃのすけ)といってもよいでしょう。一般の藩士の治療を行うのは表(おもて)医者といいます。今でいう助手です。表医者の下には、表医者格、表医者介(おもていしゃのすけ)がありました。今でいう研修医クラスです。幕末になると、無足(むそく)つまり無給医局員がいました。

 原則として医者の子供が、自分の親ないし他家の医者について修業し、ある程度の年限が経つと、見習いから表医者格、表医者になり、さらに実力、経験を積んで近習医へと昇進します。昇進試験などはありませんでした。すべての表医者が近習医(者)になれた訳ではありません。
 近習医(者)は常時、国許の弘前に四、五人、江戸に四、五人いたようです。藩医の医者の中には、牢医がいました。牢獄に入っている罪人の治療に当たる医師でしたが、詳しいことは分かりません。
 余談になりますが、近習医の年俸は現在の価値に換算すれば約一〇〇〇万円位と思われます。
 藩医の他に町や村には町医や村医がおりました。これまでの調査では、江戸時代に弘前藩に女医が二人いたことが知られていますが、いずれも町医でした。


当時の医師の専門制について

 江戸時代は現在ほど診療科の専門化が進んでおりませんでした。
 内科は本道(ほんどう)と呼ばれていました。医学の本流という意味です。外科は外科、金創(きんそう)あるいは創腫(そうしゅ)と称されました。金創とは、刀槍などの金属による創(きず)を治療するという意味で、創腫とは、きずや腫れものを治療する意味です。この他眼科、女科(産婦人科)、口科ないし歯科、整骨(整形外科)、鍼科(針灸)などがありました。
 基本的にまず本道を数カ年学んでから自分の専門に進みました。数科を兼ねることも多かったようです。

藩医松野家の代々について

 まず松野家の代々について示します。

初代  長谷川兵右衛門  (  ? 〜  ? )
二代   〃 清十郎    (  ? 〜一七四五)
三代   〃 兵右衛門   (  ? 〜一七九四)
四代  松野伝庵(久富)  (一七四八〜一八一五)
      養子
五代   〃東有(長安)   (一七六七〜一八〇五)
六代   〃因策(博民)   (一七九二〜一八四二)
七代   〃元祐       (  ? 〜一八五九)
  養子
八代   〃祐策       (  ? 〜  ? )
  養子
九代   〃因策(博道)  (一八五三〜一九二一)
十代   〃傳        (一八九五〜一九五八)
十一代  〃弘        (一九二四〜    )                                     

初代の長谷川兵右衛門は秋田の浪人でありましたが、友人をたよって大鰐の長峯村に移りました。三代までは農業を営んでいました。
 四代の伝庵は弘前の藩医松野伝益に鍼術を学んで皆伝され、松野姓を名乗ることを許されました。一七七二年(明和九)のことです。その後弘前の土手町で町医として開業しました。鍼術の名人でした。松野家に伝えられた話では、障子に止まった蝿を障子紙の裏から刺しても蝿は気付かなかったということです。それほど名人であったということでしょう。
 五代の東有は養子で、藩士成田忠兵衛の三男でした。彼は蝦夷地派遣軍付の医師として一八〇四年(文化元)にエトロフ島に渡りました。そして七月七日同島で死亡しました。死因は不明です。ガラスケースに示してある親伝庵にあてた東有の遺書は、読んで涙を誘います。
 六代の因策は東有の実子で、幼い時のことはよく分かりません。町医として働いていましたが、優秀であったらしく、後に藩医として召し抱えられました。因策は江戸に遊学し、有名な杉田玄白や大槻玄沢、そしてさらに紀州の華岡青洲などにも学びました。青洲在世中に学んだ数少ない弘前藩の医師です。
 七代の元祐、八代の祐策について各々弘前藩医でありましたが、詳しいことは分かっておりません。
 九代の因策は養子で、黒石藩の医師森(盛)瑞策の長子でした。東京で天皇の侍医岡玄郷にドイツ医学を学んだということです。森(盛)瑞策の肖像も展示してあります。因策は後に弘前の森町で松野医院を開業しました。その五男が、青森県副知事を務めた傳(つとう)で、その長男が第十一代の松野弘氏です。

      
六代因策の華岡塾入門について

 華岡青洲は紀州(和歌山県)の有名な医師でした。「麻沸湯(一名通仙散、飲み薬で注射薬ではありません)」を用いた全身麻酔を行って数多くの手術を行いました。一八〇四年(文化元)から行ったこの全身麻酔法は当時世間から驚異の目をもって迎えられ、それを学ぶため、全国各地から多くの医師が青洲の門に入りました。青洲在世中だけでも、弟子は千数百人を数えました。
 津軽からも一八〇六年(文化三)から一八六〇年(万延元)までの間に計十三人が青洲の門に入っております。
 青洲は一八三五年(天保六)に歿していますから、青洲が生存中に入門して直接教えを受けたのは、一八〇六年(文化三)入門の青森の藤林潜藏と黒石の益田幽斎、それに一八一四年(文化十一)入門の弘前の松野因策(六代)の三人だけです。
 因策は一八一四(文化十一)の八月二六日に入門し、約七ヶ月間華岡塾で勉学しました。
 因策が華岡塾にいた間に三例の全身麻酔下の乳癌の手術が行われましたが、恐らく因策も直接青洲の手術を見学したことと思います。